その他の就労資格 外国人
前回ご紹介したほかに「教育」「研究」「医療」「法律・会計業務」「芸術」「報道」「教授」などの就労資格があります。
巻末に参考資料を掲載していますので、各人の学歴、経歴等に応じて検討してみてください。
4国別国際離婚の手続き(1)韓国国籍者と日本人との離婚韓国では協議離婚が認められていますし、日本に住む韓国人と日本人夫婦の離婚もCI本法による協議離婚を成立させることができます。
この後韓国大使館等へ届け出れば、両国で離婚を成立させることができます。
前回ご紹介したほかに「教育」「研究」「医療」「法律・会計業務」「芸術」「報道」「教授」などの就労資格があります。
巻末に参考資料を掲載していますので、各人の学歴、経歴等に応じて検討してみてください。
4国別国際離婚の手続き(1)韓国国籍者と日本人との離婚韓国では協議離婚が認められていますし、日本に住む韓国人と日本人夫婦の離婚もCI本法による協議離婚を成立させることができます。
この後韓国大使館等へ届け出れば、両国で離婚を成立させることができます。
「投資・経営」というのは、次のような場合の外国人のことです。
(1)日本で事業を始め経営する外国人(2)日本の企業に投資して経営する外国人(3)(1)、(2)の外国人に代わって経営する外国人(4)(1)、(2)、(3)の事業の管理業務をする外国人申請する際のポイントは、(1)事業をおこなうための事務所などの施設が日本にあること。
(2)役員や管理職以外に常勤の従業員が2人以上いること。
ここでいう従業員は日本人、外国人なら「永住者」「日本人の配偶者等」「永住者の配偶者等」「定住者」の在留資格を持った人です。
こうした外国人は活動に制限がありませんから、自由に働くことができる人のことです。
(3)経営者とは代表取締役、取締役などの役職者です。
(4)管理職につくには最低3年の実務経験が必要になります。
また大学院で経営学を専攻した場合には、その期間はこの実務経験3年から引くことができます。
(5)事業が適正におこなわれ、安定性や将来性があること。
「投資・経営」は、会社を作れば許可されるというものではありません。
会社の経営はそんなに簡単なものではないことは・ちょっと考えただけでも明らかです。
ましてや、これまでは家事に従事してきただけという外国人にとっては、なおさら慎重に検討するべきでしょう。
確実に実施が見込めるしっかりした事業計画が必要です。
日本で会社を経営したいというのであれば、「投資・経営」の在留資格が考えられます。
この資格は他の就労資格と違って、経営者については学歴等を条件にしていませんから、すでに何らかの経営をおこなっている場合や、資金力があって経営者としてやっていく十分な自信があれば、検討する価値があります。
「投資・経営」の在留資格は、日本で相当程度の投資をおこない、貿易業等の会社を経営するための資格です。
この相当程度の投資とは、従業員を2人以上採用し、事務所を維持して経営できる程度が必要だと考えられています。
「技能」は特殊な分野の熟練者ということが条件となっています。
この「技能」に含まれる仕事は8種類あります。
(1)外国料理のコック
(2)外国に特有の建築や土木の技能
(3)外国に特有の製品の製造や修理の技能
(4)宝石、貴金属、毛皮の加工についての技能
(5)動物の調教についての技能
(6)石油や地熱探査のための掘削や調査についての技能
(7)パイロット
(8)スポーツの指導者
がそれです。
このうち、(1)から(6)までは、その人が10年以上その申請する仕事についていたことを証明することが必要です・ただし・この10年の中には、外国の学校でその技能について学んだ期間も含めることができますから、仕事の経験と外国の学校で専攻した期間の合計が10年以上あればよいことになります。
また「外国に特有の建築や土木の技能」は10年以上の外国人技能者の指導監督を受けて仕事をする場合には5年の仕事経験者とチームを組むこともできます。
(8)の「スポーツの指導者」は3年以上の仕事の経験か国際大会等へ出場した人が対象です・この3年間以上にはプロのスポーツ選手だった期間や、外国の学校で学んだ期間を含めることができますから、選手だった期間と外国の学校で専攻した期間の合計が3年以上あればよいことになります。
音楽家山寸志さんは、「顔も覚えてない死んだおやじが閥駿的に僕を教育して、音渠家にしたようなものだ」といっています。
これが本当の教育であります。
教育は条件なのです。
レコードをかけて、楽譜を読んで聴いていたおやじのイメージを子どもは受けとめたわけです。
芥川竜之介さんの意志というものが、形でなくて、心として、その子どもに伝えられたことになります。
このように、江藤俊哉さんにしても、芥川也寸志さんにしても、親の在り方として共通していえることは、環境条件づくりであり、子どもの、内面意欲であって、決して、親の外からのおしつけでないことが、お解りのことと思います。
そして、親が「何か一つに夢中になってみせる」ことが必要ではないかと思います。
ベートーベンやモーツァルトなどの名曲を聴くのでも、ちゃんと、楽譜をとり寄せて譜面を見ながらレコードを聴いていたのですね。
そこが、やっぱり芥川竜之介という人は、真のインテリだったんですね。
普通の人だったら、ただレコードだけを、目をつぶって、聞いていて、手をふったり、足ぶみなどをして、目はつぶってしまって聞いているだけですが、芥川さんという人は、ちょっと桁が違うんですね。
譜面を視ながら聴くというんですから。
やみくもに、こんなになって(限を閉じ、首を振りながら)いるのとは。
そういうお父さんの遺したものを、淋しいままに聴いていたのですが、いよいよ、中学を出て、高等学校(旧制)へ行こうか。
あるいは軍人になろうか、というときに、やっぱり上野の音楽学校へ行って、僕は、音楽をやろうと決心したのです。
そうして、芥川也寸志さんは、上野の音楽学校へ進学して作山の勉強をしたのです。
芥川也寸志さんは、やがて、中学校を出て、いよいよ、上の学校を、どこにしようか?と決めるとき、進路に迷ったといいます。
その迷いから、方向づけをしたのですが、それは、次のようなことがあったからなのです。
也寸志さんの少年時代に淋しいとき、書斎を見ますと、おやじの造していった蓄音機があり、レコードがあったのです。
そのレコードは、シンフォニーとか、ドイツのリートとか、いろいろあったので、少年也寸志さんは、そういうのをかけて、自らなぐさめるために聴いていました。
また、それらのレコードには音譜も揃えてあった。
この楽譜もお父さんが遺していったのです。
この前の続き^^
お母さんと男の子三人の生活でありましたが、彼はもうお母さんだけが頼りでした。
今でも、子どもの時のことを思い出して、それは、冬の寒い夜、火鉢を囲んで過していると、炭がポーンと跳ねて、お母さんの類の辺にぶつかる。
「あ、お母さんは死ぬんではないか」と思って、はらはら、どきどきした位、お母さんが心配だった、というふうに、親子が温かいきずなのもとに生活をしていたのです。
そのお母さんは、ご高齢で、亡くなられました。
そのとき也寸志さんはこういいました。
「自分は、今までの長い人生で、いろんな喜びや悲しみを経験してきたけれど、母に死なれたときぐらい深い悲しみというものは、知りませんでした。
ほんとうに、どうしていいか解らないほどつらかった」と。
作曲家の芥川也寸志さんは、あの有名な芥川竜之介さんという小説家家の子どもさんです。
その也寸志さんが二歳のとき、お父さんの竜之介さんは、38歳で服毒自殺をされたそうです。
人生にゆきづまって、芥川竜之介が死にましたのは、昭和2年のことでした。
ですから、二歳である子どもの也寸志さんは父親のことは知りません。
今でも、おやじのことは何も覚えていないといいます。
その頃、改造社という出版社が文学全集をつくりましたが、その文学全集の宣伝広告のために、有名な作家の家庭を、白黒フィルムにおさめて、活動写真(映画)で紹介していたのです。
その活動写真を見るとおやじが浴衣を着て、自分を抱いて可愛がっているところが写っています。
そこで「ああ、自分は、おやじに可愛がられていたんだなあ」ということが大きくなってからわかった。
それくらいで、自分はおやじを知らないので、もっぱら、お母さんとばかり暮してきたのです。
と、続きは次回に^^
満州に大きな支配力をもつとともに、さきの対華二十一ヵ条の要求で、露骨に中国侵略の意図をみせた日本にたいしては、民族運動の鋒先がもっとも強く向けられるのは当然のことでした。
こうした情勢にたいして、若槻内閣の幣原外相は、不干渉・協調主義の外交路線をとり、むしろ、中国の民族的要求をいれ、新政権と協調しながら日本にとって有利な条件をつくりだそうという方針をとった。
しかし、これにたいしては、関東軍をはじめとする軍部も、右翼も、そして貴族院や枢府の反動勢力も、これを「軟弱外交」として大いに攻撃していました。